Bardとしてのイェイツ-イェイツ詩の多声的な声

Bardとしてのイェイツ-イェイツ詩の多声的な声

神戸親和女子大学名誉教授  松田 誠思 氏

詩人・劇作家W.B.イェイツ(1865-1939)の文学活動は、1880年代末に始まり、1939年に亡くなるまで半世紀に及んでいます。それは英国の支配下にあったアイルランドが、独立のための戦いと挫折を繰り返し、第一次大戦後に「アイルランド自由国」(1922)が成立したにもかかわらず、その国家形態と主権問題をめぐって国論が分裂して内乱が起こり、一応の決着が図られた後も、政治・社会運営において宗派・階級間の深刻な対立が続き、国家的にも文化的にもきわめて不安定かつ流動的な時代でした。
イェイツの文化活動に、このようなアイルランド社会の動向が反映されているのはもちろんですが、彼の詩人としてのあり方には、近現代の多くの詩人たちとは異なるいくつかの特質が現れています。最も注目すべき点は、彼自身、近代ヨーロッパ世界の認識論や価値観を土台に生きてきたにもかかわらず、ある時期からその枠組みを作り直そうとしたことです。彼の心事をあえて一言で言えば、生についても死についても、古代人の経験と英知を学び、蘇らせるべきだということになるでしょうか。もう一つは、社会における詩人の公的役割と地位の重視です。
古代・中世のアイルランドには、Bard(バード)と呼ばれる詩人・語り部がいました。部族の神話・伝説や、系譜・歴史を語り伝える高い素養を持ち、時に応じて詩を吟じ、人々を楽しませるきわめて重要な役割を担っていました。
イェイツは若い時からこのバードの伝説に自分を位置づけ、高貴な精神性と民衆的生のエネルギーに形を与えようとしました。彼の詩が時とともに多様な「声」を獲得し、みごとに響かせている例を、いくつかご紹介したいと思います

異界の使者クーフリン  ケルト神話の原点をさぐる

異界の使者クーフリン  ケルト神話の原点をさぐる

京都大学名誉教授 佐野哲郎 氏

 すべての民族が持っているといわれる神話には、必ず異界が現れます。それは、あるいは神の国であり、あるいは死者の世界であり、あるいは海の彼方の理想郷です。これらの異界の存在を認識することこそが、人間に、生きることの意味を教えてきたのです。アイルランド神話の最大の英雄と言われるクーフリンは、異界の父の子として生まれ、異界と行き来し、生涯、異界と縁が切れることがありませんでした。このいわば異界の使者としてのクーフリンが私の話の主人公となります。
ウェールズの伝承から発展したとされるアーサー王物語に、「サー・ガウェインの緑の騎士」という物語があります。これを、同じ主題をもつ、クーフリンの物語と比べる事から始め、クーフリンの数多い冒険譚を紹介して、アイルランド神話の原点がどういうものであるかを、考えようと思います。
さらに、強調したいことは、アイルランド神話と日本神話との間にある不思議な類似です。海を越えて常若の国へ行ったアシーンの物語と、浦島伝説とが似ていることは、よく知られていますが、ほかにも、地名の由来へのこだわりという重要な類似があります。それをお話しすることが、もう一つの柱です。

アイルランドにおける伝承のバラッドとリテラリー・バラッドの姿

アイルランドにおける伝承のバラッドとリテラリー・バラッドの姿
18世紀から20世紀にかけて

福岡大学 外国語講師  三木 菜緒美 氏

 ジェームス・ジョイスの短編『ダブリン市民』の中から「死者たち」を映画化したジョン・ヒューストン監督の作品『ザ・デッド』には、ジョイスが聞き馴染んでいたというバラッドが美しく歌われる場面があります。バラッドというのは、中世以来ヨーロッパ各地でうたいつがれてきた作者未詳の物語歌です。一個人である詩人や語り部たちがつくり、歌ってきたものとは違い、民衆の中から生まれたものといってもよいでしょう。そのため個人が作ったものと区別して、この口承のものを「伝承バラッド」と呼んでいます。押韻やリフレインなどシンプルな形式を用い、戦いや恋愛、呪い、亡霊、妖精、変身などをテーマとし、イングランドやスコットランドでは15、16世紀頃に最盛期を迎え、シェイクスピアなどの劇作品にも影響を与えてきました。
アイルランドにはアルスター地方を中心に17世紀初めに入植者たちとともに入ってきたといわれており、英語使用の広がり、そして文字としての定着を促した「ブロードサイド・バラッド」の広がりと平行して、アイルランドでもその人気は広まっていきました。その後、このバラットを好んで模倣し、自分の試作品に取り入れたいった詩人が生まれました。このような詩人が作ったバラッドを”Literary Ballad”(リテラリー・バラッド)「バラッド詩」といいます。
18世紀であればスウィフトやゴールドスミスから、現代であればW.B.イェイツまで様々な詩人達がバラッドに親しみ、自らのバラッド観、社会観を表現していきました。
まずは、バラッドの中でもアイルランドで歌われたていた伝承バラッドをいくつか具体的に見て、聞いてみたいと思います。それから18世紀から20世紀にかけてどのようなバラッド詩が作られていったのか、その一部を紹介してみたいと思います。

黄金と生命とケルトの自然観 ~時間と錬金の人類史~

黄金と生命とケルトの自然観
~時間と錬金の人類史~

◎4月のケルトセミナーに続く第2弾!

多摩美術大学教授 鶴岡真弓 氏

 癒しに通じる自然観で知られる、ケルト・北欧の神話の「剣」(黄金)は、じつは「生き物=生命」だったという話から起こして、壮大な人類の黄金ロードをしめしながら、私達人類の「黄金」の生命=時間を錬金してきた「心・知・技」の過去・現在・未来を描き出す。
講師の最新著書『黄金と生命』が講談社から発刊されたのを記念にお話いただきます。
尚、翌日、14日は鶴岡先生の最新刊をThe Celts(ザ・ケルツ)で著者と一緒に読み解く会を催します。詳細は下をご覧ください。

心地よい熊本で祖国アイルランドを思う

心地よい熊本で祖国アイルランドを思う

崇城大学教授 Peter Flaherty氏

 今年は日本・アイルランド外交樹立50周年の記念すべき年です。Peter Flaherty氏はアイルランド・ゴールウェイ出身。日本には35年間滞在されています。教授が生まれ育った(昭和22年頃)のアイルランド事情、魂に刻まれているケルト文化、今のアイルランドの状況、外交樹立50周年までの日本とアイルランドの交流史、「国際化」という荒波がもたらこと、或いは日本人にとってのケルト文化の魅力などー長期の日本滞在で考えられていることを、日常の雑感なども交えなが語っていただきます。

ザ・チーフタンズの20世紀-あるいはアイルランド音楽と社会

ザ・チーフタンズの20世紀-あるいはアイルランド音楽と社会

翻訳家 茂木 健 氏

 1942年のクリスマス、四歳だったパディ・モローニが母にティン・ホイッスルを買ってもらった瞬間から、ザ・チーフタンズの歴史は刻まれはじめる。1959年の作曲家ジョーン・オ・リアダとの出会い、キョールトリ・クーランの結成と解散を経て、パディを中心に結成されたバンドがチーフタンズであり、以降、メンバーの交替はあっても、かれらは常にアイルランド音楽の最前線に立ち続けてきた。チーフタンズが出発した1960年代前半、アイルランド本国でさえ伝統音楽は都市住民を中心に蔑まれたており、鑑賞すべき作品としての伝統音楽の提示は、それだけでひとつの冒険だった。そのような時代から、『リバーダンス』や「イナバウアー」に至るまでの約半世紀の間には、いったいなにがあったのかパディ・モローニとチーフタンズの軌跡を再検証しながら、各時代のアイルランド音楽および社会を、実際の音源を通して概観してみようというのが今回の目論見です。

アーサー王伝説の剣と聖杯の世界史 ケルトとインド=ヨーロッパ語族の共通神話の視点からみる

アーサー王伝説の剣と聖杯の世界史
ケルトとインド=ヨーロッパ語族の共通神話の視点からみる

多摩美術大学教授 鶴岡真弓 氏

 アーサー王伝説の剣と聖杯には、ユーラシア大陸の東西に文明を築いた、ケルトを西の雄とするとインド=ヨーロッパ語族の共通神話と技術が反映しています。今回はケルト伝説のアーサー王伝説と北欧神話のジークフリート伝説とを主に比較しながら、剣=金属=黄金を「生きもの」と見なしてきた人々の自然観・生命観を明らかにしたいと思います。超自然的な力を持つ剣=金属=黄金を生み出してきた魔術師 即ちマリーンなどの役割にも焦点を当て、インド=ヨーロッパ語族に共通する黄金と金属の神話の核心と精神文化についてお話しいたします。
2007年4月下旬に10年ぶりの大著『黄金と生命』(講談社)刊行予定。今回のケルトセミナーのテーマはその本の先駆けたものになります。ご期待ください。a

ジュリアン・グラックと聖杯探求 戯曲「漁夫王」をめぐって

ジュリアン・グラックと聖杯探求
戯曲「漁夫王」をめぐって

西南大学名誉教授 有田 忠郎氏

 ジュリアン・グラック(1910~)は1948年『漁夫王』を発表いました。
グラック唯一の戯曲で、翌年4月から5月までモンパルナス劇場で上演されました。中世の「聖杯物語」に素材を得たものです。12世紀末フランスのクレチアン・ド・トロワの手になるこの未完の物語は、その後およそ半世紀にわたり複数の作家によって書き継がれました。しかし15世紀イギリスのマロリーによる再話などを除けば、主題の基本的な展開は文学史から姿を消しました。舞台に再び登場するのはワグナーの『パルジファル』の初演(1882年)をまたなければなりません。あれほど熱烈に探究されてきた聖なる器の行方が、光を失った触の状態にあったのです。たぶん魂の最も深い層に潜行し、それゆえに、さまざまな神秘物語に利用されてきたのでしょう。
グラックの『漁夫王』は、登場人物の面ではクレチアン・ド・トロワとワグナーに依拠しています。しかし、「聖なるもの」については表象はまったく異なります。われこそは聖杯を発見する資格がある騎士という気負いで「漁夫王」の城に入って行く若きペルスヴァルがどんな思いがけない怖ろしい体験をして城から退出しなければならなかったか。グラックは、処女作『アルゴールの城にて』を「パルジファルの悪魔的書き換え」と呼びましたが、この形容はむしろ『漁夫王』にこそ相応しいと思われます。
この戯曲は、ただ一度上映されたきりでした。グラックの小説やエッセイはほとんどすべて邦訳されていますが、『漁夫王』は発表から半世紀たった今日も日本語訳はありません。いろいろな意味で謎を孕んだ作品と言えましょう。