亡霊のアイルランド:ジェイムズ・ジョイスを中心に

亡霊のアイルランド:ジェイムズ・ジョイスを中心に

中村学園大学流通科学部講師 田多良俊樹 氏

 「モダニズムの巨匠」たるジョイスが、初期の短編集『ダブリン市民』において、亡霊をどのように扱っているのかを検討してみたい。まず、厳密な意昧ではどこにも亡霊が登場していないように見える短編に、実は亡霊が登場していることを確認する。この「ゴースト・ハンティング」の作業を経て、ジョイスが、その文学的キャリアの初期の段階から、アイルランドにおける心霊主義や神秘主義といった文化的伝統に反応していた可能性を探る。
講演日は初夏の頃。今回のように、ジョイス文学における亡霊を語る=怪談をするの一興かもしれない。いないと思っていた亡霊がいたと分かって「ヒヤッ」とするのを十分に楽しむために、聴衆の皆様には、邦訳でも良いので『ダブリン市民』を事前に一読されたい

スコットランドのバグパイプとケルト文化における位置づけ

スコットランドのバグパイプとケルト文化における位置づけ

東京パイプバンド代表 Pipe Magor 山根 篤氏
日本スコットランド協会理事

スコットランドのハイランド地方を旅すると、広大な丘、ヒースの草原、羊たち、そして運河や湖、城(廃墟となってしまったものも含め)に出会うことができる。
各種族によって統治されていた土地には、その種族の長であったクラン(家系)があり独自のタータンが存在し、異までもなお大切に守られ、勇猛果敢なスコットランド人であることへの誇りとして子孫たちへと受け継がれている。
1974年女王陛下来日を機に設立された東京パイプバンドの代表として30年以上国内外でハイランドバグパイプの演奏活動を続けているが、演奏曲目の中には現代的な軍隊の行進曲だけではなく、ダンス曲・古典曲・歌唱曲・生活の場面に根付いた曲も多い。スコットランドにおいて英国軍となる以前はスコットランド内の各クラン(種族)の城主に帰属していたバグパイパーたちが、生活に根付いた各場面で演奏をしていた。これは、唯一英国より独自の軍隊(私有軍)を持つことを許されAtholl侯爵とAtholl Highlandersの存在からも当時の様子を目の当たりにすることができる。今回の講座では楽曲の違い・様々な経験や楽器の近年の変化を、実際の楽器を使って実際に鑑賞していただく。
また、ハイランドバグパイプ発祥の地とされるスカイ島、ここにあったバグパイプ学校とマクリモン家・国民詩人として有名なロバート・バーンズにも触れながら、バグパイプという楽器の生い立ちと、現在スコットランドだけでなく世界中で演奏されたいるその姿を様々な角度からご紹介したい。

日 時 2010年11月28日(日)
13:30~16:30 (展示のみ12:00~)
内 容 13:30~14:00
ケルト文化とアイルランド~映画『地球交響曲第一番』に観る
日本ケルト協会 山本啓湖
14:00~15:30
「スコットランドのバグパイプとケルト文化における位置づけ」
東京パイプバンド代表 山根篤
15:30~15:45
スコティッシュダンス   原田秀子ほか
15:45~16:30
アイリッシュダンスト音楽
ザ ケルツ セッションバンド/プラブサノール
アイリッシュダンスクラス有志

アイルランド紅茶試飲
ポーターケーキの試食(数量限定)

場 所 (財)福岡県国際交流センター
こくさいひろば <アクロス3F>
福岡市中央区天神1-1-1  TEL092-725-9200
参加料 一般・会員共 無料
主 催 日本ケルト協会

アイリシュダンスの歴史的変遷

アイリシュダンスの歴史的変遷

関西外国語大学、立命館大学非常勤講師 翻訳家 山下理恵子氏

Round the house and mind dresser
私自身がアイルランドで体験したダンスは、華やかなスポットライトを浴びたダンスショーでも、少女たちが順位を競い合うステップ・ダンスでもありませんでした。真冬の暗い空の下、パチパチと音を立てる暖炉の近くで奏でられる音楽、そしてダンス。仕事帰りにダブリンから車を走らせて、週末に参加した田舎での熱気あふれるケイリーやセッション。「食器戸棚にぶつからないように気をつけな!(mind the dresser)」という踊るときの決まり文句の通りの、昔ながらの光景。現在では大きなステージやパブの出し物として人気の高いアイリッシュ・ダンス。でもダンスが人々の目に触れられるようになったのはつい最近のことです。「アイリッシュ・ダンス」という名称で呼ばれるようになったのも100年ほど前から。それまでは市井の人たちの、生活の中で根付いた文化でした。ちょうど私がアイルランドで体験したような・・・。これらのダンスから、テレビや舞台で多くの人が目にするアイリッシュ・ダンスが生まれたのです。そしてこれらのダンス、例えば通常4組で踊るセット・ダンスやコネマラ地方のシャン・ノースなどはいつまでもアイルランドで踊り継がれています。どのような種類のアイリッシュ・ダンスを踊る上でも、知っておくべき伝統だといっても過言ではありません。
今回の講演では、アイリッシュ・ダンスの歴史をその時代の社会情勢を絡めながら説明していきます。また、私自身のアイルランドでのダンスに関わる楽しく、時には悲しい経験談もお話ししたいと思います。アイリッシュ・ダンスを踊る人には、政治に翻弄されたダンスの社会的背景をぜひ知ってほしい。踊ったことのない人は、ダンスの幅の広さ、生活の中での役割、そして楽しさを聞いて、実際に踊ってみてください。

日 時 2010年9月12日(日)
第1部14:00~15:30講演(13:30開場)
第2部16:00~18:00アイリッシュ・ダンスワークショップ
場 所 婦人会館 大研修室<あいれふ9F> 福岡市中央区舞鶴2-5-1
参加料 一般 1,500円  会員 無料 *当日 会場で直接受付けます。
主 催 日本ケルト協会
後 援 福岡市 福岡市教育委員会

ブリテン島 新石器時代・青銅器時代の埋葬と社会

ブリテン島 新石器時代・青銅器時代の埋葬と社会

九州大学准教授  溝口孝司氏

現在のイギリス(連合王国)の主要部を占めるブリテン島、なかでもウイルトシャー・ドーセットの二州を中心とする南部イングランドの地で、新石器時代から青銅器時代の前半にかけて(今から約6000~3500年前)、特異な葬送文化が発達した。最近の調査では、有名なストーンヘンジも、死者の葬送の場として機能していたことが確かめられている。
最新の考古学の成果は、当時の人々が、さまざまな儀式を通じて、死者や祖霊と親しく交流することによって、文化や社会の仕組みを維持し、生活していたことを明らかにしている。
本日は、当時の埋葬の場やストーンヘンジの発掘調査の成果をもとに、ケルト以前のブリテン島の文化や社会について考えてみたい。

日 時 2010年7月11日(日)14:00~16:00(13:30開場)
場 所 あいれふ講堂<10F> 福岡市中央区舞鶴2-5-1
参加料 一般 1,500円  会員 無料 *当日 会場で直接受付けます。
主 催 日本ケルト協会
後 援 福岡市 福岡市教育委員会

アイルランドみやげ話 2009-2010 -モノたちが語るダブリン

アイルランドみやげ話
2009-2010
-モノたちが語るダブリン

早稲田大学文学学術院教授  栩木伸明氏

 2009年4月から2010年3月までの一年間、ダブリンで暮らした。
-というか、この文章を書いている今、ぼくはまだダブリンに住んでいる。今回の滞在では、ふとしたきっかけー最初は一冊の古本だった-から歴史や文化をさまざまに秘めたモノたちとの出会いがはじまり、それらのモノが語るアイルランドの話をエッセイに書いてみる習慣がついた。
ケルティックタイガーの余波のせいか、アイルランドで本格的な骨董品を探そうとすると、品薄だし、値段がとても高い。しかし、ぼくが求めているのは高価なアンティークではなくて、フリーマーケットに出ているガラクタや、その昔売られていたみやげものや、日曜画家が描いた絵のたぐいである。ちょっと素性が怪しいかったり、正体が忘れられていたりするそれらの物品をじっくり眺め、耳を傾けていると、モノたちは自分の物語を語りはじめる。
今回の講義では、この一年間に出会ったいくつかの古いモノ、新しいモノが語りだす身の上話に耳を傾けながら、ダブリンという都市に刻まれた歴史の痕跡を探り出してみたい。手に取ることができるちっぽけなモノの背後に広がっている、バイキング時代のダブリン(クライストチャーチや聖パットリック大聖堂)、18世紀に近代都市の体裁を整えたダブリン(ジョージアン様式の整然とした街並み)、ジョイスの『ユリシーズ』の舞台になったダブリン(タクシーによく似た二輪馬車であふれていた)などを、ヴァーチャルツァーしてみたいとおもっている。

日 時 2010年4月25日(日)14:00~16:00(13:30開場)
場 所 あいれふ講堂<10F> 福岡市中央区舞鶴2-5-1
参加料 一般 1,500円  会員 無料 *当日 会場で直接受付けます。
主 催 日本ケルト協会
後 援 福岡市 福岡市教育委員会

漢とローマ~倭とケルト

漢とローマ~倭とケルト

九州歴史資料館 館長 西谷  正 氏

今から2千年ほど前、ユーラシア大陸の東と西に、二つの大きな文化圏があった。東の文化圏とは漢帝国を中心としたものであり、そして、西の文化圏とはローマ帝国のそれであった。また、二つの文化圏の周辺には、それぞれ、異民族の文化圏が見られた。東の漢帝国の周辺文化圏の一つが、その当時、漢帝国から倭と呼ばれた現在の日本列島において認められる。
漢帝国は北方の草原地帯を舞台に強大な勢力を形成し、南方へ進出を計っていた匈奴を牽引するため、倭をその冊封体制下に組み入れようとした。一方、漢帝国とはシルク・ロードのオアシス・ルートで結ばれた西方に、ローマ帝国が位置した。ローマ帝国は、その版図拡大の過程で、現在のイングランドのケルトへと進出した。ここにおいて、西のローマ帝国とケルトの関係を、東の漢帝国と倭のそれとの比較から、二つの地域間に見られる共通性と相違点を見出したいと思う。
たとえば、ローマ帝国のファートに対して、ケルトはヒルフォートで対抗した。それに対して、漢帝国の場合は、群県治所の設置が見られたが、漢帝国の直接支配を受けなかった倭では、朝貢関係を結んだ。ただ、倭における防衛的な環濠集落はケルトのそれに共通点が見出せる。しかし、防衛対象は、ケルトの環濠集落がローマ帝国であるのに対して、倭のそれは倭内部の周辺諸国であった点は大きな違いである。

ケルトの水脈 ~ブルターニュ(ブレイス)がケルトを意識するとき~

ケルトの水脈
~ブルターニュ(ブレイス)がケルトを意識するとき~

女子美術大学教授    原 聖 氏

 ブルターニュ(ブレイス)では、現在、「ケルト間交流祭り(フェスティバル・アンテールセルティック」というイヴェントが40万人もの観客を集めて開催され、「ケルト・サークル(セルクル・セルティック)」という伝統舞踏の愛好家団体は、200を超える支部をブルターニュ全域にもっている。ブルターニュにとって「ケルト」とは、アイデンティティの重要な部分であり観光資源ともなっているのである。
フランスにおける「ケルト」は、16世紀に登場し、当初は「ガリア(ゴール)と同義だった。反フランス的な民族主義の核として「ケルト」が意識されるようになるのは、19世紀半ば以降である。こうしたなかで、民俗学が対象とする、生活習慣や民話に含まれる、キリスト教に包摂されないような部分が「ケルト的」とみなされるようになるのである。
同時に、ケルト諸語の同族性をもとにしたケルト語圏の交流活動が始まる。
これが、はじめに紹介したイヴェントや団体にまでつながっているのである。
こうした「ケルト」について、具体的事例を通して解説する。

「水上往還」 ~アイルランドにおける航海譚と異界の風景~

「水上往還」
~アイルランドにおける航海譚と異界の風景~

中央大学教授  松村賢一 氏

アイルランドに残存する数多くの神話や伝統は古代・中世の物語として今に伝えられていますが、その源はストーリーテリングとよばれる《語り》でした。ストーリーテリングは伝承の過程で変容しながらも、多くが12世紀のアイルランド修道院文化の黄金期を経て文字に写されていきました。中でも異色な物語群に中世の航海譚があります。『ブランの航海』は最も古い航海の物語とされ、日本古代の常世の国を彷彿とさせる異界の風景が存分に写し出されています。妖精の誘いをうけ、潮路はるかな「女人の国」を訪れたブランの一行がアイルランドの岸辺に還って来た時には、幾百年が過ぎていました。この話はどのような心性から生まれたのでしょうか。万葉集や丹後風土記逸文などに遡る神仙譚の浦島子に似ているところがあります。
このほかにラテン語による『聖ブレダンの航海』と酷似した『マールドゥーンの航海』、アイオーナ島から二人の修道士が海上巡礼する『スネーフサとリーラの息子の航海』、天国と地獄をモチーフにした『コラの末裔三兄弟の航海』などがあります。とりわけ『コラの末裔三兄弟の航海』はキリスト教の贖罪巡礼をめぐる航海譚ですが、贖罪ではなく悟りとして観音菩薩のもとに生まれ変わることを願った日本の僧たちの補陀落渡海についても触れたいと思います。

アイルランドにおける伝承のバラッドとリテラリー・バラッドの姿 18世紀から20世紀にかけて

アイルランドにおける伝承のバラッドとリテラリー・バラッドの姿
18世紀から20世紀にかけて

福岡大学 外国語講師  三木 菜緒美 氏

 ジェームス・ジョイスの短編『ダブリン市民』の中から「死者たち」を映画化したジョン・ヒューストン監督の作品『ザ・デッド』には、ジョイスが聞き馴染んでいたというバラッドが美しく歌われる場面があります。バラッドというのは、中世以来ヨーロッパ各地でうたいつがれてきた作者未詳の物語歌です。一個人である詩人や語り部たちがつくり、歌ってきたものとは違い、民衆の中から生まれたものといってもよいでしょう。そのため個人が作ったものと区別して、この口承のものを「伝承バラッド」と呼んでいます。押韻やリフレインなどシンプルな形式を用い、戦いや恋愛、呪い、亡霊、妖精、変身などをテーマとし、イングランドやスコットランドでは15、16世紀頃に最盛期を迎え、シェイクスピアなどの劇作品にも影響を与えてきました。
アイルランドにはアルスター地方を中心に17世紀初めに入植者たちとともに入ってきたといわれており、英語使用の広がり、そして文字としての定着を促した「ブロードサイド・バラッド」の広がりと平行して、アイルランドでもその人気は広まっていきました。その後、このバラットを好んで模倣し、自分の試作品に取り入れたいった詩人が生まれました。このような詩人が作ったバラッドを”Literary Ballad”(リテラリー・バラッド)「バラッド詩」といいます。
18世紀であればスウィフトやゴールドスミスから、現代であればW.B.イェイツまで様々な詩人達がバラッドに親しみ、自らのバラッド観、社会観を表現していきました。
まずは、バラッドの中でもアイルランドで歌われたていた伝承バラッドをいくつか具体的に見て、聞いてみたいと思います。それから18世紀から20世紀にかけてどのようなバラッド詩が作られていったのか、その一部を紹介してみたいと思います。